おわりに


【おわりに】

ヨーロッパで「近代」がはじったのは、(フランス革命及び産業革命からとして)2百年。そして、日本は百年。しかも、日本はこの百年の間に2回(!)、文化を捨てている。言い方が悪ければ、生活様式とその元になる考え方を180度、転換している。その功罪についてはここでは触れないが、一つだけ確かなことは、その変化を受入れた、日本人の“柔軟さ”によって、過去に例の無いほどの繁栄を成し遂げた、という事実はあると思う。

その中で『文化』を考えた場合、二律背反の面があるが、それを守る意識と、それにとらわれないという双方の意識が必要だったのではないかと思える。
それはエレクトロニクスを支える人たちがいる一方で、紀元前から、ブドウを植えワインを作り続けた人たちがいることと、似ているのかも知れない。

ここで『近代』≒『資本主義』とした場合、その基本原理は、個人主義に支えられた『物』と『お金』と『競争』に集約されそうである。しかし今、これまでの、「近代」から、もう一つ、違った段階にさしかかる時期に来ているように感じる。
テムズ川とロンドン橋
イタリア郊外の町
  市民権を得ている例でいえば、『エコロジー』的考え方、“地球規模で”環境を考える、といった動きがある。この概念は本質的に、「近代」から少し離れている。

ここで、完璧といえるほどのエコロジー社会の例を一つ上げるとすれば、それは『江戸』。これは、石川英輔著の『大江戸リサイクル事情』(講談社)に詳しいのでここでは述べないが、「近代」社会は、全く逆の思考で繁栄を可能にしてきたことは間違いない。

しかし、もう“個”を中心にした行動規範では、社会(地球)が成り立たなくなりつつある。「近代」の次に来る(であろう)社会がどのようなものなのかは明確でないが、これまでにない「柔軟な思考」が求められてくるであろう。そして、それができるのは「日本人」なのかも知れない。民族のバックボーンとして「文化」を育て、大切にすることは、いうまでもなく貴重な意識である。しかし、違った「文化」を受入れることで、「発展」がある。新たな人類共通の文化を、これまでの文化の上に築きあげる、視点の広さと、軟らかな感性が、今こそ求められている時代だと思われる。

たった2週間の、駆け足の旅行にしては、(少し)大それた結びになってしまった。言葉足らずで、解りにくいところが多々あったかと思いますが、最後まで見ていただき、感謝申し上げます。ありがとうございました。
レオナルド・ダ・ビンチの像
 
ベネツィアの『月』

(2001.8.13)

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