卒業研究と卒業


工学部の授業の中で、いちばん大変なのが「実験」だった、と思う。「基礎実験」「応用実験」「専門実験」とあり、それぞれ‘T’と‘U’があった。どのくらい大変かというと、いくら時間がかかってもいいように、午後の(最後の)‘コマ’に時間割が組まれていた。通常は3時間(の時間割)であるが、結果が合わなければ、何時までも残ってやった。そして、毎回‘レポートの提出が義務づけられていた。もっと大変なのは…、‘すべて出席!’しないと…単位は貰えなかったことである。(おまけに、時間は長かったのだが、単位数は…前期・後期でそれぞれ‘1単位’しか貰えなかった。)(^_^;)

『早坂高原』で‘アンテナ’設置。  (1976年8月29日)
そして、「専門実験」まで終了していなければ、「講座」(研究室)への配属(=‘卒業研究’)は認められなかった。私は4年次(終了時点)で、この単位を取得してなかったので、その時点で(最短でも)2年間の‘延長’が決まっていたのである。ただ、ありがたかったのは「通信講座」の大田原教授が、私を「研究生」として‘引き取って’くれたのである。‘講座ゼミ’や色々な行事にも、参加させてくれた。そしてその年、(晴れて)「専門実験T・U」の単位を取得!することができた。\(^o^)/

この「通信講座」は、当時は電気工学科に所属していたが、その後すぐに(新設された)「情報処理工学科」のメイン?講座(研究室)となったくらいで、人気が高かった。講座配属は、希望者が多い時には、(当然)‘成績順’となる。しかし(たまたま…ラッキーなことに)、その年は‘一次希望’が出そろった時点で、定員まで行かなかった!のである。…私は(遠慮?して)‘一次希望’は出してなかったのだが、すぐに研究室の「大田原先生」にお願いに行った。(先生は…ちょっと困った顔をされたが…)定員まで希望者がいなかったことを知り、講座配属を認めてくれた!のである。

そして、卒業研究のテーマも決まった。テーマは、『方向性結合器を使用した位相器による電波障害の解消について』。そして、研究室技官の「沼田さん」の指導を受けることとなった。この「沼田さ
同、『早坂高原』で‘電界強度測定’。  (1976年8月29日)
‘電測旅行’の途中。(有名な)『北山崎』。 (1976年8月29日
ん」にも、とってもお世話になった。‘卒研’についてはもちろんなのだが…、(前にも書いたが)私は明け方まで起きているような‘逆転生活’をしてたものだから、なかなか…起きられなかった。そして、私の部屋の隣は管理人室で、そこに‘電話’があった。沼田さんは、『Kosyu、1時過ぎたから、起きて研究室に来い!』とモーニングコールならぬ、‘目覚まし電話’を(毎日!)かけくれたのである。(今考えると、とっても‘なさけない’話なのであるが)…沼田さん、ありがとうございました。<(_ _)>

で、研究室でもたびたび、飲んだ。春に、先生はじめみんなで市内で飲んだのだが、(例によって?)すっかり酔っぱらってしまった。夜の11時頃、タクシーで(誰かと)一緒に帰ってきて、部屋の50mくらい手前で下りたのは知っているのだが、そこから…‘道に迷った’。歩いても歩いても…、どこまでいっても‘部屋’に着かないのである。‘近道?’をしようと、田植えの終わったばかりの‘水田’の中を歩いたり、4時間!ほど…歩いた。その間に、サンダルはなくし 、メガネをなくし、腕時計もなくし…、おまけに泥だらけ…。(幾分‘醒めてきた’頭で)『これじゃ、帰れな い…』と、ちょうど走ってきた車を止めて乗せてもらい、(例の)「丸片石油」まで送ってもらった。これは、『高松・死の彷徨事件』と(私は)呼んでいる。

夏になると、通信講座恒例の「電界強度測定旅行」にでかける。私は、前年「研究生」でも参加して いたので、2回目の‘旅行’だった。‘電界強度’って、例えば、(疲れた時など、気分転換に)『ちょっ と‘電界強度の測定’をしてくる。』といって、テレビを見たりしたが、‘電波の強さ’のこと。でも「測定旅行」は(テレビなどは持っていかずに)純然たる「測定」ですのでね、誤解のないように…。で「旅行」は、車2〜3台に分乗して、「早坂高原」から「龍泉洞」を通り、三陸海岸に抜け、北山崎、鵜ノ巣断崖、そして久慈市から「平庭高原」に寄って(要所要所で、アンテナを立ち上げ、「電界強度測定」をして)帰ってきた。とても、たのしかった。

つ、ついに‘卒業’…。   (1977年3月)

秋になると、2月の卒業研究発表に向け、忙しくなる。「就職試験」もあるし、(わたしの場合は)‘酒田大火’などもあったりして…、大変だった。でも、‘就職’も郷里の酒田に決まり、「卒業研究発表」も(なんとか)通していただけた。そして、最後の「後期試験」。実は、2〜3科目‘落とした!’のだが、(当然「必修科目」は落としたら卒業できない、ので)‘先生まわり’をした。『就職も決まっているし、先生の‘この単位だけ!’なのです』と…必死だった。でも、(そのまま、単位はいただけなかったが)どの先生も…‘再試験’をしてくれて、晴れて!「必修」「選択」とも単位を揃えることができた。 そして…卒業。長かった『学生生活』は終わった。

この6年間、盛岡そして岩手が大好きだった。そして大学と…同袍寮!。なによりも友人たちと、先生、色々な方々に…ことばにいえないほど、お世話になった。今でも…なにか、‘あの場所’に行けば、あのころの友だちや生活が、まだ(同じように)あるような‘錯覚’をおぼえることがある。いい尽くせない思いと感謝を、あの頃お世話になった、すべての皆さまに捧げたい。ありがとう〜!!!



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