無  題


昭和47年の『仮装行列』。「経理部」と「厚生部」のメンバー?。
この(「ピンポンパン体操」の)写真を見ると、(実は)ちょっと‘切ない’。私が2年になって、(厚生部だった)私の部屋に入ってきた‘初めての後輩’が(私の隣にいる)『藤坂』君だった。なぜ、‘本名’を出すかというと、(私が5年次、藤坂君が4年の時に)彼は、亡くなってしまった…のである。藤坂君とはどこか気が合って、(人柄といい)とてもいい奴だった。そして、‘話’もおもしろかった。よくお酒も一緒に飲み、色々な話もした。藤坂君は、(高校を卒業したばかりというのに)『秋田の酒』の話(要するに‘自慢’)も、よくしていた。『爛漫』『高清水』『新政』『両関』…と、なかなか詳しかった。

またある夜、紅梅寮に行った時、ストームの‘先客’がいた。(2年になった)藤坂君のグループだった。紅梅寮にあがる‘坂’の下で、彼らの話を聞くとはなく?待っていた。話の中心は藤坂君で、楽し く盛り上がっていた。その話のひとつが、スキーに行った時のこと。藤坂君は、(秋田県の湯沢出身
‘新’同袍寮から教育学部に続く道。道の右は桜並木。新寮に移ってすぐ、一年先輩が…首を吊った。よく知らない人だったが悲しかった。
であるが)スキーは‘初心者’で、はじめて(田沢湖)スキー場に行ったときのこと。『…下のなだらかなところでいくらか練習して、‘リフト’に乗ろうということになった。(やっとの事で)リフトの乗り場まであがったのはいいが、(当然)リフトは止まってくれない。やっとの事で、リフトに腰かけたつもりが、ずるずるとすべり落ちていく…。大変だと思い、リフトにしがみついたのだが、‘バンザイ’の格好でぶら下がってしまった。リフトは揺れるし、どうしようもない。リフトの係のおじさんが、それを見て『落ちろ〜!』と叫ぶが、落ちるのもこわい。しかし意を決して、落ちた。でも、落ちたのはいいが、スキーの先から雪に埋まってしまい、こんどは身動きができない。…そして、うつぶせで雪に埋まったまま、皆が助けに来るのを待っていた…』、というような話が、延々と?続いていた。

私も(特に午前中は)、あまり学校に行かなかったが、藤坂君も(学校に行かず)よく寝ていた。Kosyuの‘眠り病’がうつった、とか‘うわさ’されたりもした。そして、前期の試験が始まり、試験を受けて、帰ってくるたびに…『また、落とした。』と、…何か、一年前の私を見ている?ようだった。藤坂君とは、(この前期の)半年しか一緒の部屋ではなかったが、陰ながら「がんばれ!」とずっと思っていたような気がする。

しかし、(藤坂君が亡くなった)夏、最後に会った人が、『Kosyuさんに、一度、会いたい。』といってたということを、後で聞いた。(こういうことを書いていいのか迷うのだが…)彼が亡くなった時に、
雨の岩大工学部‘構内’。
私のところに(実際に)‘会いに来た’(のだと思う)。私は(夏休みで、酒田に帰省していたのだが)、夜、寝ていて‘金縛り’になって目がさめた。意識はあるのだが、体が動かない状態。そして、あお向けに寝ている私の‘背中’に何者かが、しがみついているのである。‘わき腹’のあたりをぐりぐりと押すので、苦しくなって、(口のあたりにあった)‘指’を(ガリッと)思いきり…噛んだのである。そのとたん、(それは)ふっと離れ、いなくなった。(後で、藤坂君が亡くなった話を聞き)あれがもし、藤坂君だったのなら、あんなひどい追い返し方をしなかったのに、と心が痛んだ。似たようなことを藤坂君のお母さんも話していたという。お母さんのところにも(会いに)行った(らしい…)。

藤坂君は(その頃は寮を出ていたので)、たまに学内などで会うと、‘はにかむような笑顔’を投げかけて、ひとことふたことあいさつを交わすくらいだった。その頃私は、自分のことばかり考えていて、藤坂君の力になることができなかった。藤坂君を、死に追いやったのは、私にも責任がかなり…あったのではないかと思う。入学してきた時に、‘いい先輩の手本’を見せてあげられなかったから…。

藤坂君と…藤坂君のお母さん…、ごめんなさい…。(この場を借りて)こころからお詫びを申しあげたい。そして…、ご冥福を祈ってます。


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