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高松二丁目
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盛岡5年目の春、私は寮を出た。そろそろ?生活を改めて卒業しようと思ったから…(かも知れない)。しかし、5年目でも結構‘残っている’同級生は多かった。実は私が4年の時(S49年)、「オイルショック」があり、卒業して就職が決まっても‘夏頃まで自宅待機’という人も多かった。(その影響?もあったのだろうが)私の学年は(工学部←岩大?新記録!の)‘留年率’23%くらいだったと記憶している。地元の新聞でも『どうなっている、岩大生』などとニュースになった。
しかし6月頃、やはり4月に寮を出ていた、(例の)Kanou君が『俺んとこ、部屋がひとつ空いてるから、よかったら移ってこないか』と誘いがあった。明るいとってもいい部屋で、場所も「高松二丁目」と学校にも(バイト先の「丸片石油」にも)とっても近かった。(当然)即、引っ越し!をした。そこに入っているのはすべて岩大生で、1階に(私を入れて)男5人、2階に女性がやはり5人だった(と思う)。たまたまであるが、男5人のうち(私を入れて)3人が山形県出身だったのも、何かの縁だったのかも知れない。(そして皆、山形県内に就職した。) 私の部屋の隣は「管理人室」となっていたが、大家さんは別に自宅を持っており、普段は留守で、たまに、息子さんが飲んだ時?に泊まるくらいだった。元々は、大家さんが住んでいた家で、広い台所もついていて、(友だちと‘飲み会’を開くにも)とっても使いやすかったし、‘友だち’もしょっちゅう遊びに来てくれて、(飲みの)‘機会’も多かった。そして、2階の住人を含めて‘コンパ’を開いたりもしたり、Kanou君は(‘特定の’)「彼女」はいなかったが、女性?にはとっても‘顔’が広かった。実はKanou君は、4年で卒業したが、‘研究生’として大学に残り、その後「大学院」を卒業したので、盛岡には7年住んでいたのである。私が‘卒業’した後は、『独酔庵の仙人』と呼ばれたり…してた。
そして、(みんなには)色々なことで、とってもお世話になったが、前出のT君(ことTanizaki君)は‘勉強’の面では『大恩人』なのある。Tanizaki君は(同じ電気工学科で)卒業には(色々なことで)5年かかったが、その後に大学院に進み、勉強もよくできた。夜、(研究室からの帰り)よく部屋に寄ってくれたのだが、『おいKosyu、明日‘○○の再試’があると掲示が出てたぞ!』と教えてくれる。(『‘明日’かぁ…、間に合わない…(・・;)』と、思っていると)明け方!まで‘勉強を教えて’くれたりした。Tanizaki君がいなかったら、(きっと私は)卒業できなかった、と思う。 秋には、(4年で卒業して、東京で働いている)‘sinちゃん’が遊びに来てくれた。そして、11月1日から4日間、Kanou君の愛車‘ミニカ・スキッパー’で、(同じく5年だった)Takashi君を入れての男4人、東北各地を巡り歩いたのもなつかしい。 一日目は、田沢湖から抜けて‘新鳩ノ湯温泉’に泊ま
その次の日からは、八幡平から秋田に出て、十和田湖、青森、そしてTakashi君の故郷の五戸市を回って帰ってきた。この‘ミニカ・スキッパー’は(360ccなのに)元気で、4人(途中でTakashi君の‘お母さん’が加わった時は5人!)を載せてがんばってくれた。この車はKanou君が1年生の冬?頃からの‘愛車’で、(特に)‘下り’には滅法強かった。(‘登り’となるとからきしダメだったが…)そして、(元気よく?)飛ばして走るので、(‘軽’なのに燃費は)リッター8kmくらい…だった。
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