山 登 り


高校時代にも、(「吹奏楽部」の)友人と「夏山登山」をしていたが、大学に入ってからは夏になると、(高校時代の同級生の)M君と鳥海山や朝日連峰に登っていた。M君は「東北大」に入り、仙台で暮らしていた。時々、盛岡まで遊びに来たが、来る時はいつも‘ヒッチハイク’だった。まだ、東北新幹線も東北自動車道も開通していない頃で、(寮の近くを通っている)「国道4号線」を、(帰る時には)姿が見えなくまで…歩いていきましたね。

大学1年の時には、「鳥海山」に登った。鳥海山は‘独立峰’で、山裾を(遊佐町の)海岸におろしている。M君はその町の出身だった。そのため?か、山登りのスピードは(とっても!)速かった。(おまけに背が高いうえに、‘足’も長かった…。)で、その時の鳥海は‘年に数回!’という素晴らしい天気だった。朝、ご来光とともに起き出したのだが、日本海に‘影鳥海’を映し、庄内平野が一望!できた。

次の夏は、「朝日連峰縦走」。3泊4日のコースだった。鶴岡駅からバスに乗り、「大鳥口」から入った。しかし、何回登っても登り始めは…こたえる。体が慣れないし、荷物は(最大限に)重い。おまけに、最初に急坂がくるのが普通だから、いっつも…『なんで、こんなところに来たんだろ…』と思ってしまう。(おまけに)このときはバスを降りる時、(私が払ったはずの)料金をM君が請求されて、すこしトラブッたので、いつにも増して(M君の)登はんスピードは速かった…。(^_^;)

その日は「大鳥池」で一泊。次の日は…、以東岳の(標高)‘千m近い急坂’から登山開始。『なんだ坂、こんな坂…』とつぶやきながら…、登った。でも、尾根に出てしまえば、天気はいいし、景色もいい。涼しい風と、そしてもう(割合と)なだらかで、もう絶好調。実は、鶴岡からのバスでも一緒だった4人の女性グループがあり、(追い抜いたり、抜かされたり)大体ペースが一緒だった。二日目の宿泊地も同じだった。(←彼女たちのグループのテント設営を見て、「俺たちも、ここに泊まろ」と相談がまとまった、のだったかも知れない。)

ハクサントリカブト
M君は、(話し上手に聞き上手というのか)初対面でも、すぐ(だれとでも)‘仲良く’なれる特技?(というか、‘いい性格’なのでしょうね)があった。(彼女たちの近くにテントを張ったものだから)夕飯の支度をしたり しながら、すこし話もしたのだが、ご飯を食べた後、『遊びいこ!』と、ウイスキーを片手に(彼女たちのテントに)遊びに行きましたね。彼女たちは新潟大の‘ワンゲル部’で、その晩は‘色々なお話’をして楽しかった。

しかし夜、(自分たちの)テントに戻った頃から、雨模様で、風も強くなってきていた。夜半になって風がますます強くなり、(入っている)シュラフにテントの‘屋根’がぴたっと張り付くような、そんな状態。M君が、『大丈夫だろうか?』と話しかけるが、テントって‘丈夫’なものと(その時は)思って…いた。しかし、いきなり!テントが‘吹き飛ばされて’しまったのである。荷物と濡れたシュラフを抱えて、そばの山小屋に逃げ込み、濡れた上に窮屈な‘眠れない夜’を過ごしましたね。

翌日も雨で、‘新潟大グループ’は引き返すといってたが、引き返しても二日のコースで、私たちは、大朝日岳、小朝日岳を目指すことにした。雨の中、ただひたすら歩いたのだが、一緒になったグループがあった。男4人の『電々村上44』(今でいうNTT)の方たちだった。(お互いに心細いものだから…)終日一緒に歩いた。彼らは(新潟側に下山したので)小朝日岳?あたりで分かれたものと思うが、私たちは、どこににおりたか忘れた。(テントもないし)その日は、山小屋泊まり。その晩は、‘屋根のついた’寝床でゆっくりと寝た。

しかし(実は)右の写真は、(Aを除き)2年後の2回目‘挑戦’の時のもの。天気も割合とよく、すてきな山行だった(ようだが)、もうほとんど記憶に残っていない。ただ、古寺鉱泉におりて、そこの『朝陽館』に泊まったのだが、夜、(山小屋の)‘おじさん’と‘色々な話’をしたことはよく覚えている。おじさんからは、‘タヌキ’と‘ムジナ’の見分け方、とか、‘熊の崖の登り方’(←要するに、しっかり‘三点支持’で登る、ということ)…楽しい話をたくさん聞けた。翌朝は寒河江行きのバス停を目指したのだが、長かった。10数kmはあったと思うが、いくら歩いても‘まだまだ先’という感じ。‘股ずれ’というのがあるが…このときは(生まれて初めて)‘尻ずれ’になった。(重い荷物を背負っているので)お尻の‘筋肉’にも(当然)力が入るが、長時間歩いたため、‘お尻がすれた’のである。赤くなって…痛かった。(‥、)

(新寮となった)3年次には、M君とは日程が合わず、いけなかったが、夏が過ぎ秋になると、山に行きたくなった。‘縦走’となると、鍋や食器、コンロなど一式必要なのであるが、(ちょうど)北杜夫の『青春記』を思い出した。北杜夫は(旧制高校時代)長野の松本で過ごしたのであるが、やはり山登りをしている。そして、北杜夫の‘真似’をして(食料は)『ハムを一本とパン』だけを持って、(それと、部屋の後輩の‘水戸出身の’Ootu君からワインをもらって…)秋田駒ヶ岳に向かったのである。(これに味をしめて)それからは、気が向くと「単独行」をした。秋田駒から乳頭山…、ここはいちばんの‘お気に入り’でよく登った。

乳頭山から、岩手山側に抜けたこともある。(下山口の)葛根田川の上流に「滝ノ上温泉」があり、川に沿って下ると(国指定の天然記念物の)『玄武洞』がある。ここの「六角柱状節理」は圧巻だった。お弁当をもって、大勢の人が、秋の行楽?に来ていた。(しかし地震の影響により、H9年とH10に‘大崩落’をして、今は見る影もない、という話きいた。)しかしその頃、この葛根田川は美しい渓谷だった。
(注:『六角柱状節理』…‘安山岩’で、溶岩が冷やされる生成の過程で垂直の六角柱に結晶したもの。玄武洞はその゜巨大な‘崖’。
日本海に映る‘影鳥海’    (1971年8月)
@    大鳥池から二日目出発。   (1974年8月12日)
A  オツボ峰で‘カニカニ’をした…。 (1972年8月2日)
B   「竜門山」まであとすこし…。  (1974年8月12日)
C      「Kingyokusui」泊。   (1972年8月12日)
D 三日目。大朝日岳の山小屋。  (1972年8月13日)
E 四日目。まだ、ここか2時間40分(1972年8月14日)
Fバスのある‘柳川’着。3時間40分…。(1972年8月)
秋田駒ヶ岳(笊森山)から望む岩手山  (1973年10月)
「いい川だな」と思い…あとで‘魚釣り’に来たこともあった。‘ブドウ虫?’の入った‘枝’を一束抱えて行ったのだが、(この日も)まるで釣れなかった。後で、‘魚のいない川’という話を聞いた…。(‘sinちゃん’の‘忠告’が身にしみた。やはり…‘地元の釣具屋さん’と仲良くならなくっちゃ。)

またその他にも、八幡平から岩手山までの縦走、そして岩手山にも何度も登った。体育の日には、同袍寮主催の「岩手山登山」などもあり、‘sinちゃん’はじめ大勢の友だちと登ったこともあった。
でも、生活に疲れて?(ひとり)何日も、山で過ごしたり…したことは、(思い返すと)とてもなつかしい…。


「Essay」TOPへ