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盛岡市街。下側の‘森’が「盛岡城趾」。岩大は中央部分。○が新同袍寮、○が旧寮の位置。 |
寮の‘役員’となって、最も重要な‘課題’が、『新寮の建設』だった。当時新しい寮の建設には文部省は‘消極的?’だったのだが、ある冬の日、昭和48年度の新寮建設予算が決定!した、との連絡が入った。
それも…、『同袍寮』と『自啓寮』の2棟が一緒に建設されるのであった。実は同袍寮は‘工学部の寮’であるが、(定員の関係で)農学部の1年生は同袍寮に入っていた。そのため、2寮を同時に建設しないと色々な問題が生じるせい、なのかも知れなかった。
当然…その夜は、大騒ぎになった。‘祝杯!’を重ねたのである。そして夜も更けてから、誰からともなく『ストームに行こう』ということになった。
めざすは『紅梅寮!』(と『北謳寮』)。60〜70人くらいはいた?と思うが、最初は‘歌’などうたって歩いていたが、気分は高揚する一方で、(また、誰からともなく…)「デモだ、デモ!」と…『フランスデモ』を敢行。(集団の力は強い…)‘交通を遮断して’数キロの道のりを‘デモ行進’をしながらの‘ストーム’となった。(←‘よい子’のみなさんは、真似しないでね。)…いまでも、(当時の)紅梅寮生からは、『あの‘フランスデモ’は、感動的だったわ…』といわれたりする(らしい)。(←‘奥さん’が…‘元紅梅寮生’という方も、結構多いから…。)
(注)フランスデモ:フランス発祥(だと思うのだが)、両手を横に広げ、手をつなぎ、‘道幅一杯’になって行進する、デモの形態。
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‘旧’同袍寮玄関付近と広場。 (昭和48年頃?の冬)
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そして、‘旧’同袍寮最後の冬を迎えることとなる。‘新寮’の建設も着々と進んでいた。Kosyu2回目の盛岡の冬となったのだが、やはり、寒い。ある日(たまたま)、壁板の破れたところから、‘鉄ゲタ’を発見した。その後、この‘鉄ゲタ’は大活躍することとなる。(前にも書いたが)寮の暖房は‘薪ストーブ’である。それで、手近なところから、‘燃料’を調達し始めたのである。押入の戸はなくなり、壁板も次第に燃料と化していった。隣の部屋とは、廊下に出ないでも行き来できるようになり、文字通り‘オープン’な寮となっていった。(いうまでもなく)この鉄ゲタは‘壁の破壊’にとっても役に立ったのである。また、昔(戦後)の一時期、‘進駐軍’に接収されたことがあるのだが、(寮の解体の時)壁の中から、2丁の銃が発見されたと聞き、(すこし)‘残念’だった。(←‘発見者’になれなかったから…。)
旧同袍寮脇の道路。(撮影年月は不明) 廊下…。 工学部側。秋、たくさんの‘銀杏’が実をつけた…。
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‘引っ越し’風景。(Hama君、Aoki氏、Muji君、(後列)不明氏とKamiyashiki君)
(1973年3月頃:写真提供‘Aoki’氏)
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そして、春とともに(無事に)‘新寮’に移ることができた。私は3年次となり、‘寮役員’は、引退を することとした。そして入ったのが403室。4階の北側で、とても見晴らしのいい部屋であった。当然、部屋はきれいで、二つの二段ベッドがあり、机や本箱、ロッカーなども‘備え付け’であった。
入口も(スチール製の)‘ド ア’だったが、(ストームの影響か)‘直ちに’壊れる部屋も(いくつか)あった。ただ、この新寮の建設とともに、同袍寮の『寮生気質』は(これ以降)急速に変わっていったような気もする。(いいか、悪いかはともかく…。)