色々なこと


岩大に入学して、色々なところに顔を出した。そして、どこに行っても『Kosyuはどう思う?、どう考える?』と問われた。これには、あれっ?と思った。というのは、Kosyuが、これまで(例えば)‘親’であるとか、‘先生’の「価値判断」や「意向」に添った思考(行動)しかしてこなかったことに気づいたのである。自分の‘頭’で考えて、(自分で)判断してこなかったのである。だからまず(いくら‘遠回り’でも)、何でも自分でやってみて、実際に経験し、それから(物事の)判断をしようと考えた。それまでのKosyuと180度、考え方を‘転換’したのである。いわば(大げさかも知れないが)Kosyuの‘バックボーン’を求める『旅』に出たのだと思う。

大阪にて (1971年7月)
まず、『大学祭実行委員会』に入った。夜遅くまで、忙しく準備をしていたことや、「広告集め」に走り回ったことも、今考えるとなつかしい。そしてその頃は、「印刷」というと『ガリ版』の時代で、‘ガリ切り’や、「タテカン」(立て看板)書きは、とっても‘上手’になった。(←これは「岩手県寮連」の‘雑用’係もしていたし…。)しかし…、当の大学祭がどんなであったか、まるで思い出せない。きっと、‘裏方’の、いろいろな対応に終われていたのだと思うのだが…。(蛇足であるが、今大学一年生の‘娘’にサークルは何か入った?と聞いたら、『学祭実行委員会』で、驚いた。私の‘学生時代の話’は子供たちにしたことはなかったので、こんなこと(まで)も‘遺伝’するのかな、と不思議だった。)

7月の終わり頃、『全国大学祭連絡協議会』が大阪!で開催されるというので、(急きょ)初めて大阪に行った。ある大学の一室に泊まり、‘大学祭における色々な課題’などを話し合った「会議」なども‘充実’?していたはずだが、タクシーから降りた時の…『むっとするような、ものすごい‘暑さ’』だけが印象的に残っている。大阪と盛岡の往復で、このとき‘初めて’「特急列車」に乗った。新幹線もあったはずだが、乗った記憶がないので、東海道本線を行ったのかも知れない。(何しろ学生は…、暇はたっぷりあるが、金はなかったから…。)

(話は変わるが)‘大阪から盛岡に帰った日’から開催される『東北学生サマー・キャンプ』にも参加を申し込んでいた。盛岡に(やっと)帰り着いて、とんぼ返りで福島の「裏磐梯」に向かった。あまりの電車の旅の長さに、うんざりしてしまったが、このサマー・キャンプは、(と〜っても)楽しかった。このサマー・キャンプは、全国でも最大規模で1,000人前後の学生が参加していた(と思う)。一班が10人で、男女それぞれが半分ずつ。だから、テントも数百の数が張られていた。一緒になったのは、岩大の(男)5人と、女子は宮城学院大の5人だった。同袍寮からも、Hama君やNamagaiさんが同じ班だった。
裏磐梯。まだ、皆会ったばかりで、表情が‘固い’かな? (1971年7月)
ちょっと遅れて参加した私を、(第13班の)皆様はあたたかく?迎えてくれた。そしてその夜は、班毎の‘出し物’の発表があるということで、さっそく準備。決まったのが「歌」と「踊り(振りつけ)」。曲目は『ひょっこりひょうたん島』。考えた‘振り付け’もよかったし、息もびったりで、発表は大成功!(あまたの出場チームの中で)特別賞の『かわいいで賞』を獲得した。この発表で、一気に班がまとまった感じで、その後は何をしても楽しかった。(5人の‘お嬢さん’も皆、個性的でとってもすてきな方々であったし、)ゲームをしたり、裏磐梯の‘五色沼’周辺をハイキングしたり、ボートに乗ったり、2泊3日のキャンプはあっという間に過ぎてしまいましたね。

その他にも‘行事’はたくさんあった。県寮連の主催の‘春レク’‘秋レク’には、バスを何台もチャーターし、「早坂高原」「平庭高原」「高森高原」「田沢湖高原」…と色々なところに行った。今思い返すと、‘高原’ばかり。でも、考えてみると、数百人が集まって、‘レクリエーション’を行うには、広い場所が不可欠だから…。Kosyuの文化部時代にも「姫神山」に‘下見’に行ったことがあったが、結局姫神山にはいかなかった。でも、秋の晴天の日、歩くたびに道ばたから飛び出してくる‘イナゴ’を足に感じながら歩いた一日は、気分も最高でしたね。そのほかにも、夜通し28kmの道のりを歩く「ナイト・ワンダリング」や寮主催の「ダンスパーティ」などもあった。
 『県寮連秋レク』。「高森高原」にて、「同袍寮」のあいさつ。
同じく、各寮の‘文化部’の面々。 (1972年10月)
でも、‘遊んでいた’ばかりではない。1年の後期は寮役員となっていたが、そのほかにも「受験生旅館斡旋事業」があった。これは、(大学入試の)受験生の旅館の手配、そして旅館や大学までの案内などを一手に(学生が)やっていたのである。市内のすべての旅館を、同じ料金で、宿泊希望者の全員が泊まれるように(高校毎に割り振りをして)手配を行う。入学試験が近づくと、何日も盛岡駅の構内に‘テント’を張り(泊まりがけで)、受付と案内を(ボランティアで)やった。

岩手大学旧本部棟。木造の歴史的建物。(1972年10月頃?)
Kosyuの入試の時にも、お世話になったので、(私も)しっかりお手伝いをした。そして夜、高校の‘先輩’が陣中見舞いと激励に来る。(実は、‘1年間で2週間勉強’もその時の‘先輩’の話だった。)だから、私も毎年行った。だけど…、(やっぱり)何人受験に来ても1人か2人しか…、合格しなかった。どうもこれは、‘Kosyu’に原因があったのではないかと、も、考えている。というのは、(高校の)受験資料として、高校三年時の実力試験の‘平均点’と合否が○×でまとめられるのだが、Kosyuは(かなり)低い点数で…合格したものだから、その後‘低い点数’の生徒の(死語となったが)‘国立一期校’の‘ねらい目の大学’とされた…のではないか、と(いま考えてみると)思うのである。

受験の時には、学内は‘出身高校の受験者向け’の「激励ポスター」で埋め尽く?される。Kosyuの受験の時には、いくら探しても『酒田東高校』は一枚もなかったので、(毎年)シーズンになるとポスターを(何枚も)制作し、‘盛大に’貼ったりもした。旅館での‘激励’もひとりでは激励にならない、と思い(例の、群馬出身の)Kanou君に校歌を‘ひとくさり’と、名物教師の‘口癖’などを教え、連れ行ったりした。Kanou君のインパクト?が強かったのか、(その時は高校の「吹奏楽部」の後輩が3人来ていたのだが)その後、20数年経ってもよく覚えていて、「えぇ?あの人、酒東でなかったの…」などと、(後の吹奏楽部の)OB会でいわれたりした。(いいかげんですね。)


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