寮とお酒…


盛岡市内から望む‘岩手山’。 (1994年発行「一祐会」誌より、転載)
新入生が寮にはいると、まず、新入生歓迎『会食会』が開催される。‘会食会’は、年に数回開かれ、その日は‘特別のメニュー’が用意される。寮は‘三食付き’なのであるが、1人当たりの一日の食費が(入った当時)116円!だった…(と思う)。当然?三食とも‘麦飯’で‘申し訳程度’のおかずがついた。これじゃ飯が食えない…と‘瓶詰めのおかず’などを、食堂に置いておこうものなら、ただちに‘カラ’になっていた。

そして、(具の少ない)みそ汁がつくが、これをすくうには‘技’がいる。それは、みそ汁をオタマでぐるぐる回すのである。(当然)‘重いもの’は遠心力で‘外側’に集まる。そして集まった‘具’を‘一網打尽’にするのである。…その頃の、同袍寮の「トイレ」には、(通常)‘米に異なる’と書くのだが、‘麦に異なる’という、(身につまされる?)落書きが書いてありましたね。(‘蛇足’でした。)

(それはさておき)この会食会(だけ)は、‘銀シャリ!’で、(少しだが)お刺身もつく。おかずも3〜4品はついた(ような気がする)。全寮生が食堂に集まり、寮長の『同袍寮〜寮歌ぁ〜アイン、ツバイ、ドライ』のかけ声でまず‘寮歌’を歌う。(かけ声がドイツ語なのは…同袍寮生は工学部なので、全員‘必修’なのである。)その後、棟毎でも歌をうたう。全員イスの上に立ち、一曲ずつ歌うのである。これは、棟毎に‘レパートリイ’があり、大体‘たわいのない’歌であった。例えば、5棟の「カラス」は、“カ〜ラァス、カァラァス、カラスはカラス…”といった感じ。それから‘出し物’。(これは後に、Kosyuも‘寸劇のプロジュース?’をしたり、色々と準備をした。)また会食会には、他の寮からも1名ずつ招待されるのだが、その招待客もひとつずつ‘芸’を披露する。(特に‘女子寮’の招待客には‘あつい声援’が飛び交いましたね…。^_^;)

私が出た後の23室。kimoto氏と(同じく山形出身の)nishitou氏。(1971年秋)
会食会がお開きになると、(さらに)棟毎に分かれて、『棟コン』が始まる。お酒は、(会食会も)‘棟コン’も「冷やの日本酒」だけ。やはり…‘どんぶり酒’の世界で、もう…‘飲めや歌えや’の大騒ぎ。そして、夜は…(しっかり)更けていくのでした。私も、初めて?のお酒だったけれど、五合以上は(確実に!)飲んだ(気がする)。

その数日後、『学部歓迎会』が開催される。(工学部は、一学年が320人くらいだったから)電気系、機械系、化学系、土木系と分かれて開かれた(ものと思う)。教授たちも、皆出ているのだが、そこでも‘どんぶり酒’。新入生は、ステージに(順番に)ひとりずつあげられて、まず…どんぶり酒を一杯飲まされる。そして、自己紹介と(おきまりの)ひとり一芸!。中には…、お酒が飲めない人もいる。(どんぶり一杯を)飲んだかと思うと、‘お酒の噴水’を吹き上げる人もいて、(ある意味)‘壮絶’だった…。

でも私の(新歓の)時は、これで済んだ?からまだ、楽勝?だったかも知れない。次の年の一年生は、もっと大変だった。(Kosyuも‘寮役員’になっていたのだけれど)『一年生ストーム』なるものを、企画立案(つまり)やらせた。「会食会」の後、4〜5人の一年生の班をつくり、同袍寮の全55室を‘ストーム’に回らせたのである。それで、各部屋では‘お酒’を準備して待ち受ける。中には、『ウイスキーの焼酎割り!』などというものを飲ませる部屋もあって、惨憺…というか、ものすごい…状況になった。自分の‘戻した’ものの上で、‘泳ぎ始める’人がいたり…、あの夜は(一晩中、大騒ぎで)…忘れられない…。(普段?でも、救急車で…運ばれる人は、時々いましたが、このときは無事に済んでよかった、ですね。今考えると…。)

Aoki氏制作の寮生名簿(昭和47年後期版)
しかし、学生(寮生?)は、(暇はあるけど)金はない。だから普段は、‘薄いし、高い’「ビール」などは、(めったに)飲まなかった。ただ、ふんだんに飲める‘機会’…も、あった。ひとつは、(割合と近くにある)『岩手医大』の大学祭。(娘の同級生の‘おとうさん’がその頃、在学していたはずだから、大きな声では言えないのだが…)ここの大学祭は(‘学校持ち!’で)‘ビール飲み放題’なのである。だから…悪友と(←ある意味、皆‘悪友’だったが)連れだっては顔を出し、「医学部1年」とか「歯学部1年」とかいっては…飲んだ!(←今考えると、セコイ!話ではある…)。

もう一つは、夏の‘ビアガーデン’。(これは…今考えると、明らかに‘犯罪’でもあるのだが、もう、30年も過ぎてしまったし…‘時効’かとも思い、‘恥を忍んで’お話をする…が)でも、やっぱり、やめようかな?…。(といいながら…)実は、夏の‘ビアガーデンの時期’になると、「いいバイトがあるぞ」と(後輩たちに)『ビアガーデンのバイト』を紹介する。そして、(慣れた頃)連れだって、そのビアガーデンに出かけるのである。最初の一杯とつまみは‘自前’で注文するのだが、その後は…(後輩が…)‘気を利かして’くれるのである。(でも私は、そんなところには、‘1回’しか…行かなかった。ホント。)…でも、たまたまその時、(別のグループで)来ていた、同級生のT君は、『ジャンボジョッキで7杯!も飲んだ』といって、半分つぶれかかっていた…。(^_^;)

入学したばかりの頃。教育学部の屋上からの風景。 (1971年4月)
実はこのT君とは、学科も同じで、‘寮役員’も一緒にやってた。(Tくんは‘寮長’になり、そして…‘1年留年’し、5年で卒業した。しかしその後、‘大学院’に進み、しっかりと勉強もした。)で、よく飲みにも行った。(←飲み代を払って…。) よく行ったのが、「大通り」にある『三(ちゃん)寿司』。

この『三寿司』、実はその頃、週に1〜2回、寮の近くの『丸片石油』というガソリンスタンドで、バイトをしていたのだが、そこに勤めていたAsamizuさん(とSasakiさん)に時々‘飲み’に連れていってもらった。その店のひとつがここ。そして、店長の‘トシちゃん’に『今度来たら、(学生で金がないから)安くしてやって!』とお願いしてくれたのである。\(^O^)/

それからというもの…、『三寿司』は、‘定額制’になった!のである。T君とふたり、いくら飲んで、食べても、いつも(ふたりで)4,000円!なのである。(調子にのって)「‘ウニ’つまみで!」などと注文すると、(例の)木の箱に入った‘ウニ’が(そのまま)、どんと出てくる。そして会計は…「今日は‘原価割れ’だ!」といいながらも、4,000円!だった。閉店の時間になることもある。閉店になると、店の残りもの(といっても‘すし屋’だから‘豪華絢爛!’)で、皆と‘打ち上げ(宴会)’となる。(当然、ただで…。)でも…、閉店は‘朝の4時!’だったから、いつもというわけではない。(←当たり前だぁ〜!)

で、T君は(大学院に入ったので)、私より1年長く、盛岡にいた。その最後の年、‘トシちゃん’の『結婚披露宴』があり、T君は(しっかり)‘ご招待’されたという話を、(後で)聞いた。(ちょっと、くやしかった…。)


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