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![]() 利長64才、狩川城主となってすでに11年が経った。慶長一七年(一六一二)三月、大堰の掘削が始められた。この時、庄内各地と由利郡から合わせて7,400余人の人夫を集めている。しかし、行く手に難所、障害は思いの外大きく、大堰の掘削工事そのものの困難と人夫たちの心身の疲弊も増大して、次第に志気も衰えはじめていくのであった。利長はこれに際しても根気よく人夫を激励し、かつ先頭に立って働いていた。工事は約4ケ月を費やし、慶長一七年七月、完成の日は訪れた。立谷沢川から取水された水は直ちに長い長い堰を流れ、三ケ沢、余目、長沼方面へとゆきわたった。実に、延長約31km。これによって最上川南縁4,200町歩にのぽる原野は美田となってよみがえったのである。そして、この堰沿には88ケ所の集落が生まれ、営々と今日まで続いて来たのである。 武勇に優れ、殖産興業に対して並々ならぬ才能と情熱をもちあわせた北楯大学利長。その後をたどれば元和八年(一六二二)主・最上家の改易という事態に至り、同時に利長も浪々の身となった。しかし狩川村民の好意のもとしばらく別宅で暮らし、のちには利長の子助次郎を庄内藩酒井家に召し抱えてもらうことになって利長自身もその元で余生を送ったといわれる。享年78才。 現在、北楯大堰は大規模な改修工事が進められている。土を掘りつないだ水路は今日まで長い年月使われて来たが、土砂崩れや水もれが発生するようになって、その都度補修の為の費用がかけられ、現代の工法による改修工事を迫っていたのである。新しい水路は美しく整備され、魚の遊ぶ姿も見られるようになるという。 この工事の完成を、もし利長が見るとすれば何を想い起こすことだろう。水は今も町の中を通って利長の熱い懐に流れ着いているのだろうか。 |
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