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 この米質の悪化と信用の失墜を回復する為にはその改善に対するあらたな挑戦と米倉庫の充実が不可欠であった。
 明治二六年(一八九三)、取引所法が公布され「米商会所」は「米穀取引所」に改められた。これによって定期取引に伴う受渡米を保管するための附属倉庫を経営することが可能になった。そしてこの頃、取引数量の増大と倉庫不足があいまっていよいよ山居倉庫の建設へと進んでいくのである。
 新しい倉庫の建設地には市の東南を流れる新井田川の対岸で、以前は最上川の中洲である”山居島”が選ばれた。ここは最上川との合流地であるとともに酒田港に隣接するという便利なところで、船による米の大量輸送には好適地である。
 山居倉庫は酒田米穀取引所の附属倉庫として明治二六年(一八九三)に建設された米券倉庫であり、その経営母体の酒田米穀取引所は明治一七年(一八八四)、庄内藩重鎮管実秀が、本間光美の進言によって、明治維新後の庄内を道義と福利の理想の郷土再興を目標として、旧藩主酒井家に要請して始められた事業である。入庫米の厳正な検査と倉移しや混合斗替に均質化、そして厳格な管理保管体制は高い信用を得た。山居米という銘柄が確立するのである。
 山居倉庫は周囲を六寸(約20cm)の厚さの壁で塗り固めた完全な土蔵造りとなっている。その屋根は二重になっていて、その間の空気の流通によって、積み重ねた俵の熱を放散し、同時に屋根からの伝導熱を防ぐ役割をしている。夏の西日、冬の強い季節風を防ぐ(遮る)ための欅並木、さらに米の揚げ降ろしの際に風雨があたらないよう工夫された屋根をかけた廊下など、藩政時代からの長い経験と当時の最新技術を活かした、すこぶる独創的な設計思想のもとに建設されたものである。


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