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 江戸期に都市の形が完成しつつあった港町酒田であるが、大きく蛇行して市中を流れる最上川は度々氾濫をおこしていて、特に河口付近の市街地と中洲地帯、そして蛇行する外側はその直撃をうけていたのである。地域の住民はこの暴れ川との戦いにあけくれていたといっても過言ではないようで、実際、一旦豪雨ともなれば、流域の田畑や家屋は水びたしになって、これを免れる為に一つの集落がそっくり移転してしまった例がある。江戸時代よりさらに遡れば、市郊外にあった酒田城(東禅寺城)も白髭の洪水と呼ばれる最上川の大氾濫によって崩壊し、現在の酒田東高校付近に再構築をよぎなくされたのである。”酒田米蔵”と呼ばれた新井田川右岸の米蔵群は、城の移築の伴って行われ、その後末永く米蔵の歴史と変遷はここに盛哀し、山居倉庫の誕生から現代までの「庄内米」も語ることになるのである。
 藩政時代の米遣い経済は明治維新を契機に次第に金本位の経済体制に移行する。それに従って、藩の収入の大部分を占める貢納米を収め、保管し、それを裏付けとして発行された”米札”の流通を支えてきた倉庫は、商品としての米の流通調整の為の倉庫へと変わってゆくのである。その時、これまでの厳格な米への姿勢は崩れ去り、同時に明治新政府の財政難によるインフレや西南の役(戊辰戦争)の勃発に伴ってなされた政府の大量の米の買い入れ、さらに農家の自家消費量の増加によって需要が急激に増大したことなどが重なって、米は生産者にとっても商人にとっても商品価値が上がってゆき過ぎた。そのような状況下での米商人の投機買いがあり米価は暴騰し米質は加速度的に下落した。庄内米は、ついに「奥州の鳥またぎ米」という悪評までこうむったのである。


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