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 庄内米の名が広く知れわたったのは庄内藩初代藩主酒井忠勝の時代からであるとしている。慶安元年(一六四八)庄内藩が沿岸の港湾を管理下におき、これを制度化して間もなく大洪水が発生。このため域内の米蔵が浸水し、すでに米商人に売約した3,000俵の米が濡れ米となった。この時、酒井家家老石原平右衛門は藩の備蓄米をそれにあて、上方商人に迷惑を及ぼすことはなかった。あるいは天和二年(一六八二)の大洪水の際にも、既に多方に売り渡し済みの30,000俵もの米が酒田蔵で水につかった。しかしこれも全て藩の損失として扱うという英断を行ったため、庄内米の名声は高まっていったのである。庄内藩主自身のことより取引先の得を優先した処方が、特に上方商人の好感と信頼を得たという。このことによって米の取引きは安定的に推移し、酒田港の賑わいも大いなものになったのである。また、これらのことが源となって、兵庫の大手米販売業者は庄内米を一手に販売し、店頭に米相場所を設け、庄内米を建米にして庄内米相場をつくって阪神地方の米価(市価)を動かした、などという記録がある。従って、米の品質の保持と管理の問題は常に検討されていたのであり、また、米蔵の機能についても庄内という自然環境や天災を深く考えた上の建設でなければならなかったのである。これらは庄内の経済にとって最も重要な課題であったであろう。
 さて、200年を超える庄内米の歴史は、米蔵の存在とその変遷が表裏一体となって表されている。物資の集積地、海運・船運の基地である酒田港は当然米蔵をはじめとする倉庫の集合地でもあった。だがここは水害のこうむる頻度の高い地であったため、幾度となく蔵の再建を迫られてきた。


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