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![]() 庄内地方で発掘された多くの遺跡は、弥生前期には稲作が始められていたことを物語っているし、また水田の開発も平安時代まで急速に進んだ。しかしその後は多くの湖沼がそのまま残っていたため開田耕地の適地が少なくなり、大規模な水利事業を待たなければならない時代に入ったのである。農業水利事業を待たなければならない時代に入ったのである。農業水利事業と耕地再開発はおよそ200年後のことになったのであった。時代は下って荘園形成の頃から武士社会の隆盛をみる時期に、庄内地方の稲作は本格的な基幹産業となっていた。同時に日本海海運と最上川をはじめとする大小の河川を利用した船運が活発になり、遠く阪神地方や関東、そして太平洋岸各地との交易が促されるようになってゆくのである。そうした中で、米もまた生産地でそのまま消費される時代は過ぎ、戦国の世が終りを告げようとする頃、酒田湊から米の積み出しがあったとする記録が残されている。天平十六年(一五八八)豊臣秀吉の小田原攻めが開始し、その折諸国の米が出征軍に送られたが、酒田から庄内米を回漕したのは2年後の天平十八年(一五九〇)であった。この時は日本海沿岸を通って下関に達し、瀬戸内海を抜けて大阪に運び込まれたという。 |
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