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入学・そして同袍寮
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もう、(今となっては)30年も前の1971年、私が18才の春、盛岡に向かった。岩手大学(通称:「岩大」=>‘ガンダイ’)に入学するためである。高校の同学年で12名が受験したのだが、合格者は(たまたま)私だけで、(知り合いもいないので)学生寮に入ることにした。(その後、もう一名が‘追加合格’となったが、その人は別の大学に行った。) “たまたま、受かった”というのは、(謙遜とかでなく)そのとおりで、担任に合格!の報告に行ったら(第一声が)『おまえ、よく受かったな。』、そして…、『おまえより成績のいいのが、いっぱい受けたのに…。』と、続けた。(^_^;)…学校側からすると「岩大」は、‘惨憺たる結果’で、‘よりによって…’と思われたのも、無理はないのであるが…。でも3月の下旬、(東北大に合格した)友人と、担任の家に遊びに行ったら、いきなり‘どどっと’『濃いめの水割り』をつくってくれて、歓迎された。(←とても、お酒が好きな先生であったのである。)…しかし(その先生は)、私が大学を卒業する直前に‘急逝’してしまい、とても残念であった。
私は工学部(電気工学科)であったので、同袍寮に入った。同袍寮は当時で既に築30数年、それも旧松尾鉱山の作業員の宿泊所の解体材料を譲り受けて建てたもので、かなりの老朽施設であった。一部屋が40畳くらいで、定員は6名であるが(入寮希望者が少なく←古くて傷んでいるから)通常3〜5人部屋となっていた。先輩の話によると、元は松尾鉱山の‘タコ部屋’で、入口から2本の丸太を平行に並べ、それを‘枕’にして寝たそうである。朝になると、親方が大きな木槌で、‘丸太の端’を思い切り叩いて回る。文字通り‘叩き起こす’のである…と。 また、別な先輩からは、『大学には、「前期」と「後期」があり、それぞれ学期末には1週間ずつ試験がある。試験勉強は前の晩にすれば十分だから、学生は1年間に2週間勉強すればいいんだ。』
そして、 寮はすべて、学生(寮役員)により運営されている。年数回の‘寮生大会’で、予算や事業を決定する。寮費の徴収から、寮祭はじめ、色々な行事も、(当然であるが)一切を寮生が行う。ちなみに、‘寮費’は、(工学部のすぐ側にあることから)3食付!の、すべて込みで8,000円ちょっとであったと記憶している。実は(私立大の人には、とても言えない話であるが)、学費も(私の学年まで)月1,000円(年間12,000円!)であった。(今になって思えば、それだからこそ、もっと勉強すべきであったと思う。学費が安い分…‘税金’だったのだから…。) |
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いくら汚い寮でも‘大掃除’は、する。6月の天気の良い日、皆で‘ホコリ’を払う。(1971年6月:23室)
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23室には(写真↑には写っていないが、もうひとり)4年生のShinoharaさんがいた。いつも、‘卒業研究’で忙しくしていた。あさ、‘濃いコーヒーを一杯’飲んで研究室にでかけ、夜遅くまで帰らなかった。夏休み(といっても、私は毎日‘休み’だったが…)、「いつも忙しくして、かまってあげられなかった」といって、(部屋の皆と)十和田湖に遊び(でなく、『23室・夏期合宿』)につれて行ってくれた。テントを張り、キャンプをして、‘休み屋’から奥入瀬渓流、銚子大滝と回り、(天気はイマイチだったけれど)楽しかった。なつかしいな…。 |
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同じく1年のFunayama君と、2、3、4年生がひとりずつの五人…。道具一式背負っていった。(1971年8月:23室『合宿』)
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寮は、年2回(前期と後期の始まる前に)‘部屋替え’がおこなわれる。もちろん、‘希望’によって部屋割りがなされるのだが、わたしは(後期に)部屋を移ることにした。もちろん、この23室は大好きで(居心地も良かったのだが)、後期は寮の‘役員’(←4棟1階が‘役員部屋’)になったのである。でも、迷って部屋の先輩に相談もしたのだが、『若い時に、いろいろ経験しなければだめだ。』と、(快く?)送り出された。その後、『厚生部』や『文化部』などの‘役員’として、1年半、忙しく過ごすこととなる。どのくらい忙しいかというと、わたしが寮役員をしていた前後5人の寮長のうち、4人までが‘留年’し(5年で)卒業していった。(でも、そのあと大学院を卒業した人もいるし、‘技術士’の資格を取った人も、何人もいる。←ねん?のため。) |
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十和田湖畔の「休み屋」。Kosyuの他、出身地も「福島」「北海道」「静岡」「岩手」と色々。(1971年8月:23室『合宿』)
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