庄内の名所旧跡を訪ねて — インターネット庄内

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本間美術館

 本間美術館の建物は、文化10年(1813)に本間家四代の光道が失業救済事業として建てた別荘で、戦前は酒田の迎賓館として利用され、戦後は美術館として広く市民に開放された。やがてモダンな新館も建設され、様々な企画展などが催されている。
 また、鳥海山を借景にした庭園「鶴舞園」も四季折々に美しく、一見の価値がある。

日和山公園

 文化10年(1813)、港近くの丘に常夜灯を設置したことに始まり、古くから港酒田のシンボルとして親しまれてきた日和山公園。酒田港繁栄の基礎を築いた河村瑞賢の像や、日本最古の木造六角灯台、往時を忍ばせる千石船、船頭衆に利用された方角石、市の文化財にもなっている常夜灯などの文化遺産が点在している。
 また、酒田を訪れた文人墨客の作品を碑にした「文学の散歩道」も有名である。

日和山六角灯台

 酒田港へ夜間航行する船舶の目標に、明治28年対岸の宮野浦最上川河口に木造六角の灯台が建てられ、石油ランプで光を放っていた。昭和33年に高砂砂丘高台に近代的な灯台が設置されて、同年日和山公園に記念物として移設された。日本最古の木造灯台と称される。

方角石

 酒田港に出入りする船頭衆が、朝夕日和を見た丘に置かれた方角を示す石である。直径0.71メートルの御影石で造られいて表面には十二支に東西南北の文字が刻まれている。年代は不明だが、寛政6年(1794)の文献に見えており、現存する方角石としては、日本最古のものであろう。

  方角石の辺りから見た酒田港の風景

千石船

 西廻り航路の開発により、庄内米を酒田港から江戸に回漕するために活躍した千石船を実物の二分の一に縮尺して再現したもので、日本海沿岸をかたどった修景池に白い帆を張って浮かべられている。

常夜灯

 文化10年(1813)に酒田港に出入りしていた船頭衆と廻船問屋が、北国廻船の航海安全を祈願して建てたものである。高さ約3メートルで、台座の周囲には西廻り航路寄港地の廻船問屋などの名が寄進者として刻んであり、酒田港繁栄のシンボルである。(酒田市文化財)

文学の散歩道

 酒田は、武家の支配する封建時代のなかであくまで商人による自治を貫いた町です。
港には、上方から、そして江戸からたくさんの物や人が出入りして、みちのくの地に洗練された自由闊達な文化を育みました。
その魅力にひかれ、これまで多くの俳人や歌人が訪れて、優れた作品を残しており、その優れた作品の数々を句碑にし遊歩道に配し文学の散歩道として市制50周年事業で整備しました。

石碑のある俳人・歌人

松尾芭蕉の石碑

『暑き日を 海にいれたり最上川』
元禄2年(1689)に奥の細道の途次、酒田滞在中によまれた句。

吉田松陰の石碑

 幕末の尊王論者。長州の人。
 嘉永4年(1851)の暮、22才の時、外国船がしきりに出没する北辺の地を見聞するために、藩の許可も得ずに東北遊歴の旅にでた。
 庄内に入って来たのは嘉永5年2月21日である。
『海浜に出て平砂の中を行く最上川に至る中間に浜中駅あり船川を済る ひろさ6町余川を越ゆれば則ち酒田なり戸数五千成はえふ・・・』「東北遊日記」より

幸田露伴の石碑

 東京の人。明治文学に巨大な足跡を残している露伴は、明治25年(1892)7月に土崎港から汽船で酒田に向かったが嵐のため上陸を断念した。
 その後明治30年10月18日、友人の大橋音羽と同道して酒田に来遊している。「遊行雑記」はその時の紀行文。

竹久夢二の石碑

『おばこ心持山王の山よ外に木はない松ばかり』
大正11年(1922)の春、酒田滞在中に、大浜海岸から鳥海山を望む絵に替した一首で、酒田をよんだ唯一の歌。

野口雨情の石碑

『米ぢゃ庄内 港ぢゃ酒田日和山まで船が来る』
大正15年(1926)8月、酒田の荒木京之助川柳集出版記念音楽会に、中山晋平、佐藤千夜子と共に、来酒の折荒木氏に贈ったものである。

斉藤茂吉の石碑

『おほきなる流れとなればためらはず酒田のうみにそそがむとする』
昭和22年(1947)酒田でよんだ歌

他にも・・・与謝蕪村・正岡子規・田山花袋・若山牧水などの石碑があります。

出羽遊心館

 酒田市街地の南、飯森山西地区の高台にある「出羽遊心館」は、本格的数寄屋造りの生涯学習施設である。和風の意匠を基調に、大小の和室や板の間、そして本格的な茶室「泉流庵」などが配置されており、建物の材質も吟味されたもので、特に正面玄関及びホール、大研修室の主材は金山町の250年を経た谷口の杉が使用されている。
 また、建物からの眺望も素晴らしく、鳥海山や月山、そして最上川と酒田市街が一望できる。

土門拳記念館

 酒田市の名誉市民である写真家、故土門拳氏の全作品約70,000点を収納・展示する世界で初めての写真記念館。設計は谷口吉生氏、彫刻はイサム・ノグチ氏、造園は勅使河原宏氏、銘板年譜は亀倉雄策氏と、各界の第一人者によって建造され、1983年に開館した。
 飯森山自然公園の雄大な自然美と、記念館の直線的外観が、絶妙な調和を見せている。

国指定史跡 城輪柵跡

 山形県酒田市の市街地北東約8Kmに位置し、一辺が約720mのほぼ正方形をした広大な遺跡である。遺跡中央部に整然とした政庁域が確認され、築地塀を廻らし、正殿を中心に脇殿などが「□」形に配されている。政庁外にも多く建物跡や井戸などが検出され、平安時代の出羽国府とみられている。平成4年3月に南門・東門・目隠塀・築地塀の一部が復元された。

 毎年8月上旬にいにしえロマン『国府の火まつり』が城輪柵跡を舞台に行われ、かがり火の中で民俗芸能などが上演される。夏の夜空にあかあかと燃えるかがり火とその明かりに照らされた南門・東門は、太陽のもとで見るのとはまた違う趣きである。

所在地:酒田市大字城輪字嘉平田ほか
指定年月日:昭和7年4月25日
昭和56年2月23日追加指定
面積:約52万平方メートル
交通 JR・・・ 羽越線本楯駅下車徒歩20分
交通 バス・・・ 酒田駅から観音寺・升田方面行
「門屋」下車徒歩10分
 

山居倉庫


立ち並ぶ二重屋根の倉庫
(本文参照)

 酒田市内を流れる新井田川のほとりに立つ山居倉庫は、土蔵造りで明治26年(1893)に酒田米穀取引所付属倉庫として創設されました。
 旧庄内藩主酒井家の経営で、米を神と見立てる、厳しい儒教精神で米の管理に当りました。
 その建築には、幕藩時代の技術の粋を集め、二重の屋根、湿気防止の内部構造、そして背後に聳える欅並木は、夏の西日、冬の季節風から蔵を守るなど自然を利用した低温倉庫管理が行われています。
 その昔、秋になると最上川、新井田川を下り、米を満載した小鵜飼船が次々とやってきて、辺りは活気に満ちあふれたといいます。
 又女丁持と呼ばれた女性たちは、米俵を軽々と背負い、船着き場から倉庫へと運んだといいます。
 昭和14年に米の国家管理により米穀取引所は廃止されましたが、山居倉庫は未だ現役で、庄内経済連の農業倉庫として庄内米を保管しています。
 12棟の倉庫の1号倉庫は、現在庄内米歴史資料館として開放されています。

新井田川に架かる観光用の橋 立ち並ぶ二重屋根の倉庫(本文参照)

酒田市指定文化財 浄福寺の唐門

 酒田の本間様は、日本一の大地主としてその名を知られ、田畑2,000町歩を超え、庄内藩や上杉藩をはじめ、東北の諸藩に大名貸しをしていました。

   「本間様には及びもせぬが、
          せめてなりたや殿様に」


という俗謡が有名です。
 その本間家の三代目当主四郎三郎光丘が菩提寺のため、死去する前年の寛政12年(1800)に私財を投じて寄進したのが唐門です。
 京都の東本願寺大谷宗祖廟を模し、京都や近江の大工を呼び寄せて、莫大な金をかけてつくらせたもので、入母屋唐破風造りの瓦葺きです。
 柱の下部が曲がっているのが特長で、建築的には四脚向唐門と呼び、桃山後期から流行した様式です。
 唐門は、耐震構造に重点を置き、たび重なる地震にも耐え、また火災の多い町ですが、まわりの環境の良さに守られて、本堂との調和の中にその壮厳美をいまだに保っています。

 昭和38年3月9日 酒田市指定文化財指定

清亀園

 清亀園は、本間家と並び称せられた大地主伊藤四郎右衛門家の別荘として、明治24年に築造されました。
 庭は、当時50数名の門下を擁し寄暢亭の築園を手がけた名庭師、山田挿遊の手によるものです。
 当時は、庭園内に田もあったというほど広大なものでしたが、時代とともに縮小されて、現在の庭園には約250本の庭木と池、9基の石燈篭、庭石が見事に配置されています。
 最後の所有者は、三菱油化の社長にもなった酒田出身の実業家、池田亀三郎氏で、昭和54年に池田氏より酒田市が取得して清亀園と名付けて、名園を往時の姿に復元しました。
 現在は酒田市青年センターの分室として市民に利用されています。

清亀園正面 庭園より母屋を望む
庭園  

泉流寺と酒田36人衆

 文治5年(1189)に四代泰衡が源頼朝に倒され、奥州平泉の藤原氏は滅亡された後に、秀衡の妹「徳の前」あるいは後室「泉の方」ともいわれる女性が、36騎の従臣たちを従えて、立谷沢に落ちのび、さらに酒田に落ちのびてきました。
 「徳の前」あるいは「泉の方」はやがて剃髪し、尼となって「泉流庵」と名付けた尼庵を建てたのが泉流寺のはじまりといわれています。藤原一門の冥福を祈り、90歳で亡くなるまで静かな日々を送りました。
 36人の遺臣たちは、地侍として住み着き、回船問屋を営んで、36人衆を組織し、「西の堺・東の酒田」といわれたほど繁栄した酒田港の発展に努めたことは、多くの人に広く知られています。
 井原西鶴の「日本永代蔵」に「北国一番の米の買い入れ、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介された酒田の豪商、池田惣左衛門(屋号「鐙屋」)は36人衆の筆頭にかぞえられています。

泉流寺 泉流庵
36人衆の碑  

十六羅漢岩

吹浦港より、鳥海山を望む

 山形県と秋田県の両県に跨って日本海に裾野を洗う鳥海山(標高2,236m)がその昔、火山活動活発だった頃、火口から流れ出て日本海まで流れ出た溶岩は、複輝石安山岩で、この溶岩に刻まれたものが十六羅漢です。
 遊佐町のJR東日本羽越本線の吹浦駅から西北に約1Kmの海岸にこの名勝「十六羅漢」が日本海に突き出たかたちであります。
 吹浦は、もともと漁村だったところで、多くの漁師が日本海の荒波に命を失ってきたのに胸を痛めた、海禅寺の第21代住職寛海和尚が、海難事故による諸霊の供養と海上の安全を祈り、衆生を救わんと、羅漢の造仏を念願して、発願したのが元治元年(1864)だったそうです。
 寛海和尚は、自ら近村はもちろんのこと、酒田まで托鉢して勧化につとめ、また一方で、升川の石工たちを指揮督励して刻苦し、明治元年(1868)ようやく22体の磨崖仏を完工しました。
 16の羅漢に釈迦牟尼、文珠、普賢の両菩薩、観音、舎利仏、目蓮の三像をあわせて22体といわれています。

左より、インガダ尊者、
ビンドラバラダージャ
尊者、ジュバカ尊者
左より、舎利仏、普賢菩薩、釈迦牟尼、
目蓮、文珠菩薩

東田川文化記念館

 明治時代に建てられた旧東田川郡役所と旧東田川郡会議事堂、郡制廃止の大正時代に建てられた旧東田川電気事業組合倉庫を保存修理して、文化・生涯学習の施設「東田川文化記念館」として平成8年7月1日にオープンしました。

住所:山形県東田川郡藤島町大字藤島字山ノ前99
TEL:0235-64-2537
FAX:0235-64-2396

旧東田川郡役所

旧東田川郡役所

 明治11(1878)年に郡区町村編成法により、田川郡を東西2つに分け、東田川郡の郡役所が藤島に置かれました。
 明治19(1886)年4月18日に火災で焼失し、明治20(1887)年5月に再建したのが現在の建物で、鶴岡の当時の名工「高橋兼吉とその子厳太郎」の創建といわれ、中庭回廊式の□型平面となっています。
 大正12(1923)年に郡政廃止後は残務整理や東田川郡農会等の事務所となり、昭和18(1943)年から昭和59年5月までは藤島町役場として使用されました。
 その後、4年をかけ保存修理を行い、創建当時の姿に蘇りました。
 内部的には、藤島の歴史から伝統芸能、さらに教育文化まで幅広く、わかりやすく展示してあります。また明治期の舶来文化の中でも特に人々の興味を集めたカメラや時計等も数々展示され、カメラと時計の歴史を目で見るコーナーもできています。

木造平屋建 □型平面中庭あり、玄関、郡長室突出
軒高:4.545メートル
建築面積:12.3平方メートル
県文化財指定年月日:昭和63(1988)年4月12日

内部の旧郡長室 展示コーナー(藤島町の獅子おどり)

旧東田川郡会議事堂

2階の明治ホール(旧議場)

 明治36(1903)年頃に建てられたと言われていますが、創建者は定かでありません。
 木造コロニアルの建築で、外人技師の建てた模倣であり、外観の切妻と玄関の妻飾りはゴシック風で、旧山形師範学校や旧庄内農学校の玄関と相似しています。
 旧郡役所と合わせて2棟とも創建当初の場所に保存されているのは山形県内でもここだけです。明治時代の和洋折衷の貴重な建造物です。
 内部は、1階は外観とは正反対の純和風のたたずまいで、藤島町立図書館として利用され、また、2階は洋風の明治ホールとしてコンサートや講演などに利用されています。

木造二階建 正面中央平屋建玄関突出
軒高:9.045メートル
建築面積:592.6平方メートル
県文化財指定年月日:昭和63(1988)年4月12日

旧東田川郡会議事堂 正面玄関

 

旧東田川郡電気事業組合倉庫
 

 郡制廃止の大正12(1923)年に、郡営電気事業から東田川電気事業組合として発足し、旧郡会議事堂に事務局を置き公益事業にあたり、その折に建てられた資材倉庫であります。
 大正末期の建造とみられ、その後何回か内部改造し、藤島町の保存帳簿や用具の格納などに使用していましたが、外装や内装を新たにしました。
 内部は1階には、藤島町名誉町民の竹内啓治氏から平成6年の町村合併40周年記念として藤島町に寄贈された世界各国で収集されためずらしい「象」の美術工芸品の数々が展示されています。2階には、藤島の原始から近世までの歴史コーナーがあり、中でも「独木船(まるきぶね)」は、1本のスギをくりぬいて作った日本最大のえぐり船で、県指定文化財として展示されています。

「独木船」
昭和7年、11年と2回に分けて、藤島字古楯跡から発掘された船で、長さは14.05mあり、奈良末期あるいは平安中期のものではないかと推定されています。

旧東田川電気事業組合倉庫

  独木船(2階展示)

 

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